アントワーヌ・カレームとは?近代フランス料理の父

今あなたが手にしているミルフィーユやチョコレート菓子。

その美しい層や繊細な技法のルーツが、19世紀フランスの一人の料理人にあることをご存知でしょうか?

マリー=アントワーヌ・カレーム(1784〜1833年)は、フランスのシェフ兼パティシエです。

フランス料理の基礎を体系化し、現代まで続く技法や文化を数多く生み出しました。

わずか48年の人生でしたが、その功績は計り知れません...!

「シェフの帝王、帝王のシェフ」と呼ばれた理由

カレームには「シェフの帝王にして帝王のシェフ」という異名がありました。

シェフの帝王 → 料理界での圧倒的な影響力

帝王のシェフ → ナポレオンやロシア皇帝など各国の権力者に仕えた実績

料理の腕前と、仕えた主人の格の高さ。

この両方を兼ね備えた人物は、歴史上ほとんどいないんです。

名前の由来はマリー・アントワネット?

カレームの本名は「マリー=アントワーヌ」でした。

これは当時のフランス王妃マリー・アントワネットにあやかって名付けられたといわれています。

でもフランス革命後、王妃の名前を連想させることは危険に...。

そのため彼は「アントナン」という愛称を好んで使うようになりました。

歴史の激動が、一人の少年の呼び名にまで影響を与えていたんですね。


波乱の少年時代|10歳で路上に捨てられた孤児

華やかな経歴の裏には、壮絶な幼少期がありました。

カレームの人生は、絶望的な貧困から始まっています。

25人兄弟の16番目に生まれて

カレームは1784年、パリ近郊の貧しい家庭に生まれました。

父は石工職人で、子どもはなんと25人!

カレームは16番目の子でした。

当時のフランスはフランス革命前夜の混乱期。

食べるものにも事欠く生活が続いていたのです。

父の最後の言葉

10歳のとき、カレームは父に連れられて近くの酒場で食事をしました。

食事が終わると、父はこう言い残します。

「世の中には良い仕事がある。
お前は賢い子だから、きっと幸せがやって来る」

そして父は、カレームをその場に残して去っていきました...。

養う余裕のない家庭が子どもを捨てることは、珍しくない時代だったのです。

路上に放り出されたカレームは、その酒場に拾われます。

皿洗いや野菜の皮むきをしながら、5年間の下働き生活が始まりました。


パティシエとしての開花|「菓子作りは建築である」

過酷な環境の中でも、カレームは腐ることなく技術を磨き続けました。

やがてその才能は、パリの一流パティスリーの目に留まります。

名店バイイへの弟子入り

15歳のとき、カレームはパリの有名菓子店「バイイ」に弟子入りしました。

ここで彼の才能は急速に開花していきます♪

空いた時間には近くのパリ国立図書館に通い、建築の本を読みあさりました。

古代ギリシャの神殿、ピラミッド、中世の城...。

これらの建築物が、後のカレームの菓子作りに大きな影響を与えます。

「芸術には5つある。
絵画、詩、音楽、彫刻、建築。
そして建築の主要な分野に製菓がある」

カレームはそう信じていました。

実は文字が読めなかった!独学で学んだ努力家

驚くことに、弟子入りした当時のカレームは文字が読めませんでした。

正式な教育を受ける機会がなかったからです。

でも彼は図書館に通いながら、独学で読み書きを習得!

学んだ知識はすべてノートに書き留め、自分の技術向上に活かしています。

この努力家の姿勢が、後に数々の料理本を執筆する土台となりました。

ピエスモンテ(工芸菓子)でパリの話題に

カレームの名を一躍有名にしたのが「ピエスモンテ」です。

これは砂糖やアーモンドペーストを使い、建築物や風景を模した大型の装飾菓子のこと。

高さは数フィートにも達し、寺院やピラミッドを精巧に再現していました。

バイイの店のショーウィンドーを飾ったピエスモンテは、パリ中の話題をさらいます。

19歳で独立し自らの菓子店を開いた頃には、カレームの名はパリの上流階級に広く知れ渡っていたのです。


タレーランとの出会い|食卓外交の幕開け

カレームの人生を大きく変えたのが、外交官タレーランとの出会いでした。

ここから彼は、料理人として歴史の表舞台に立つことになります。

「1年分のメニューを作れ」という試験

タレーランは、ナポレオン時代のフランスを代表する外交官であり、当代随一の美食家でもありました。

彼はカレームの評判を聞きつけ、ある試験を課します。

「重複のない、季節の食材だけを使った1年分のメニューを考案せよ」

カレームはこの難題を見事にクリア!

こうして彼は、タレーランのお抱え料理人となりました。

ウィーン会議で歴史を動かす

1814年のウィーン会議。

ナポレオン戦争後のヨーロッパ秩序を話し合う重要な国際会議でした。

「会議は踊る、されど進まず」という有名な言葉は、この会議を風刺したもの。

連日のように舞踏会が開かれる一方で、肝心の議論は一向に進まなかったんです。

タレーランはカレームを同行させ、連日夕食会を主催しました。

その料理の素晴らしさに、各国の要人たちは夢中に...!

結果として、敗戦国だったフランスは有利な条件を引き出すことに成功。

カレームの料理が、外交交渉の潤滑油となったのです。


ヨーロッパ宮廷を渡り歩いた晩年

ウィーン会議の後、カレームはヨーロッパ各地の宮廷から引く手あまたに。

王侯貴族が競って彼を招こうとしました。

仕えた主な権力者はこちら。

  1. ロシア皇帝アレクサンドル1世
  2. イギリスの摂政皇太子(後のジョージ4世)
  3. オーストリア皇帝フランツ1世
  4. 銀行家ロスチャイルド家

まさに「帝王のシェフ」の名にふさわしい経歴ですよね。

晩年はパリに戻り、ロスチャイルド家で思うままに料理を創作できる環境を得ました。

しかし長年の厨房での過酷な労働が、彼の体を蝕んでいました...。

当時の厨房は換気が悪く、炭火の煙が充満する劣悪な環境だったのです。

1833年1月、カレームは48歳でこの世を去ります。

最期まで料理本の執筆を続けていたと伝えられています。


カレームがフランス料理に残した5つの功績

カレームの功績は、単に美味しい料理を作っただけではありません。

現代の料理界にまで影響を与える、革新的な仕組みを数多く生み出しました。

① 4つの基本ソース(マザーソース)の体系化

カレーム以前、ソースは料理ごとに個別に作られていました。

カレームは、すべてのソースを4つの基本ソースに分類したんです。

  • ソース・ベシャメル(牛乳ベースの白いソース)
  • ソース・エスパニョール(肉の茶色いソース)
  • ソース・ヴルーテ(出汁ベースのソース)
  • ソース・アルマンド(卵黄を使ったソース)

この4つを基本に派生ソースを作るという考え方は、現代のフランス料理でも受け継がれています。

② コック帽とシェフの白衣を考案

料理人といえば、背の高い白いコック帽を思い浮かべますよね?

実はこのコック帽を導入したのがカレームだといわれています!

清潔感のある白衣と白い帽子。

料理人の服装を統一し、プロフェッショナルとしての威厳を示す。

この発想は、現代のシェフの制服にもほぼそのまま受け継がれています。

③ ミルフィーユやヴォロヴァンの発明

カレームは、今も愛される数々のお菓子を考案しました♪

ヴォロヴァン → 風に乗って飛んでいくほど軽いパイ菓子

ミルフィーユ → 繊細なパイ生地とクリームの層が美しいお菓子

折り込んで作るパイ生地の技法も、カレームが確立したものなんです。

④ 料理本による技術の体系化

カレームは複数の重要な料理本を残しました。

特に『19世紀のフランス料理術』は、数百ものレシピを収録した大著。

調理法だけでなく、テーブルセッティングや献立の立て方まで網羅していました。

伝統的なフランス料理を包括的に解説した、世界で最初の本ともいわれています。

⑤ 「料理は芸術」という価値観の確立

カレーム以前、料理人の社会的地位は決して高くありませんでした。

あくまで「使用人」という扱いだったのです。

カレームは、料理を芸術の領域まで高めました。

建築や絵画と同じように、料理にも美学と創造性がある。

彼の登場以降、料理人は「職人」から「芸術家」として認められるようになります。

現代の「セレブリティ・シェフ」の先駆けといえるでしょう。


カレームの名言と哲学|現代に受け継がれる精神

カレームは料理の技術だけでなく、深い哲学も持っていました。

その言葉は、現代の料理人にも多くの示唆を与えています。

「料理を終えた後のシェフの義務は、記録し出版することだ」

当時の厨房は「見て覚えろ」が当たり前の世界。

メモを取る暇もなく、本を読む時間もない。

そんな環境では、技術も思想も後世に伝わりません。

カレームは、料理は宴が終われば消えてしまうものだと考えていました。

だからこそ、記録として残すことにこだわったのです。

「技術を体系化し、次世代に伝える」という姿勢。

これは現代のパティシエやショコラティエにも受け継がれています。

美しいチョコレート菓子の繊細な技法、層を重ねる丁寧な仕事。

200年前にカレームが示した「料理人の義務」は、今もスイーツの世界で生き続けているのです。


カレームとエスコフィエ|フランス料理を築いた2人の巨匠

フランス料理の歴史を語る上で、もう一人欠かせない人物がいます。

「近代フランス料理の父」と呼ばれるオーギュスト・エスコフィエです。

エスコフィエ(1846〜1935年)は、カレームの死後に活躍したシェフ。

カレームが築いた技法を土台に、フランス料理をさらに発展させました。

2人の違いと共通点

カレーム エスコフィエ
特徴 豪華絢爛で装飾的 シンプルで味覚重視
ソース 4つの基本ソース 5つに再編成
共通点 技術を記録し体系化することへのこだわり

カレームが基礎を築き、エスコフィエが発展させた。

この2人がいなければ、現代のフランス料理は存在しなかったでしょう。


まとめ|逆境を乗り越えた天才料理人から学ぶこと

アントワーヌ・カレームの人生をおさらいしましょう。

☑ 10歳で路上に捨てられた孤児

☑ 独学で文字を覚え、技術を磨き続けた

☑ ヨーロッパ各国の王や皇帝に仕えた

☑ 「シェフの帝王」と呼ばれるまでに

彼が残した功績は、今も私たちの身近にあります。

  • ミルフィーユの繊細な層
  • シェフが被る白いコック帽
  • 「料理は芸術である」という価値観

次にスイーツを手にしたとき、ぜひカレームのことを思い出してみてください。

200年前の天才料理人の情熱が、その一口に込められていますよ♪